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特集!まちを楽しむ

雑司が谷 ルネッサンス

2008/08/22

毎年恒例の「東京都文化財ウィーク2003」が11月末まで開催。
このイベントにちなんで、今月は豊島区認定の史跡巡りをご紹介。
池袋の中でも歴史が多く残る「雑司が谷」にスポットをあて、ツボをおさえた歩き方をご案内します。

東池袋駅発・雑司ヶ谷霊園へ

「雑司が谷」案内人
郷土史家
矢島 勝昭さん
「雑司が谷」案内人
郷土史家
矢島 勝昭さん
地図を片手に、有楽町線東池袋駅を出発。雑司が谷方面へ向かうが、道がくねくねしていて、目的地に辿り着けない。迷ってしまったのだ。
 「昔、雑司ヶ谷に『弦巻川』という川が流れていましてね、昭和7年に暗渠となったのですが、川筋を道路にしたために、くねくねした道になってしまったわけです。さらに区画整理されていないところが多いので、一見歩きづらく感じる方もいるかもしれません。しかし江戸の面影を残す名所や旧跡が池袋の中で一番多いのですよ」と教えてくれたのは雑司が谷で生まれ育った郷土史家の矢島勝昭さん。
 「今回は特別に私が案内しましょう」という矢島さんのご好意に甘えることになり、区認定の史跡めぐりがスタート。今回紹介する「雑司ヶ谷コース」は3.8kmの道のり。ツボを押さえて史跡を巡れば2倍楽しめること間違いなし。緑多い景色を楽しみながら、まずは本教寺、そして雑司が谷霊園を目指す。

本教寺

南池袋2-41-4
1907年創立。俳人の服部嵐雪と浮世絵歌川派の始祖歌川豊春の墓がある。本教寺のある商店街は昔、番神通りといわれて祭礼などで大いに賑わっていたそうだ。
服部嵐雪の墓
服部嵐雪の墓
芭蕉の門人として知られる服部嵐雪。三回忌の折、門人がこれを建てたと記されている。「一葉散り咄一葉散風の上」の辞世の句も彫られている。

雑司が谷霊園

南池袋4-25
雑司が谷霊園の開設は明治5年(1872年)。霊園になる以前は、「御鷹部屋」があった場所で、その南側一帯には、雑司が谷村の農家が点在していた。墓域の間に並んだ大きな樹木は、22軒の農家の屋敷林や庭木だったという。その農家も、明治後半には周辺へ移転している。
霊園には、夏目漱石をはじめ小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、永井荷風、ラファエル・ケーベルといった著名人が多く眠る。園内には緑につつまれ、霊園と周辺の社寺を散策する人の憩いの場となっている。歴史や文化に思いを馳せて園内を巡ってみては。
御鷹部屋の松
御鷹部屋の松
江戸時代には霊園北側部分に、将軍が狩りの時に使う鷹の飼育場所「御鷹部屋」があった。
竹久夢二の墓
竹久夢二の墓
抒情画家。眼の大きな夢二式美人画で有名に。「宵待草」などの詩も残す。
昭和9年9月1日、51歳で亡くなる。霊園区画の1棟8号9側付近。
ラファエル・ケーベルの墓
ラファエル・ケーベルの墓
ドイツ系ロシア人。
東京帝国大学で西洋哲学、東京音楽大学でピアノを教えた。
霊園区画の1種東6号2側付近。
明主平冶左衛門のかや
明主平冶左衛門のかや
昭和9年(1772年)絵図によると雑司が谷村の明主の名主にあたる。
霊園区画の1種14号3側付近。
アンドレの墓
アンドレの墓
夏目漱石の小説「こころ」の一節にある「アンドレの墓」があった!

夏目漱石の「こころ」にこんな一節がある。
「・・・私は「安得烈」と彫りつけた小さい墓の前で「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と云って先生は苦笑いした」本当に「アンドレ」という墓は実在するのか?
雑司ヶ谷霊園に実在していたのだ。

「神僕・安徳烈之墓」。小説の「安得烈」とは一字違いだが、明治40年1月28日永眠とあったので、漱石がこの墓に出会ったとしても矛盾はない。

法明寺から大門ケヤキ並木へ

雑司ヶ谷霊園を抜けて、法明寺、鬼子母神へ進む。法明寺は桜の名所として有名で、春には花見客で賑わう。
「法明寺は、雑司が谷八景のひとつに「法明寺の花」とあるほど、見事な桜の古木が多いですね。江戸時代、松屋某が桜を植え始めたのがはじまりで、与力大久保善右衛門が心願成就のお礼に、200本余りの苗木を植えたそうです。また、「法明寺の梵鐘」「あさがお塚」なども見どころです」と矢島さん。
そして子母神へ。樹齢600年の境内のイチョウ(都市指定天然記念物)が出迎えてくれる。古来「子授けの銀杏」といわれ、戸張苗堅の「櫨風」によると、婦人がこのイチョウを抱く光景が見られた。また大門のケヤキ並木も都の天然記念物に指定。現在は4本を残すのみとなってしまったが、ケヤキのある参道は今なお歴史が息づいている。

法明寺

南池袋3-18-18
日蓮宗。威光山。創建は弘仁元年。山門近くにある「あさがお塚」は江戸の金工師・富久(俳号)の句碑。境内墓地には平安~室町期に隆盛を誇った豊島氏一族や楠正成息女の墓も。 また、この寺の桜をよむ俳人も多かった。芭蕉門人四哲の一人、其角は「山里は人をあられぬさくら哉」とよんでいる。
法明寺の梵鐘
法明寺の梵鐘
享保17年に再鋳。鐘の下の幅広い縁の部分に、曲尺、算盤、天秤などの度量衝の珍しい図柄が彫られている。


あさがお塚(句碑)
碑面には「あさがおやくりから竜のやさすがた」富久とあり、酒井抱一筆の朝顔の絵が彫られている。

姫塚(楠正成息女之墓)
側面には天保九年中沢忠顕建立とあり、中沢家の武運長久を祈るため楠女の霊を祀って、この墓を建てた。

鬼子母神

雑司が谷3-15-20
都有形文化財指定の本堂は寛文4年(1664年)のころのもので、豊島区内最古の建造物。子授け、子育ての神として尊崇を集めるようになった。境内には「三人静白拍子図」「子母神解説之図」などの絵馬が掲げられている。
子母神の「」は文字の一区画がない文字を使用している。神様なので鬼の角をとったようだ。
イチョウ
イチョウ
幹周り8メートル、樹高30メートル、樹齢600年以上。
都内では麻布善福寺、大国魂神社のイチョウに次ぐ3番目の幹周りだそうだ。

本納寺

雑司が谷3-19-14
1674年に創立。本納寺の境内基地には、旧大名の井上家(浜松井上家)の宝きょう印塔七基を護持している。句碑では、蜀山人筆の「月花塚」が有名。
秋田雨雀の墓
明治・大正・昭和の文壇・秋田雨雀の墓。本納寺の斜め向かいに住んでいたそうだ。
秋田雨雀の墓
明治・大正・昭和の文壇・秋田雨雀の墓。本納寺の斜め向かいに住んでいたそうだ。
月花塚
芭蕉や西鶴、近松とともに江戸文学の担い手として名をはせた大田蜀山人(1749~1823)筆の句碑。
月花塚
芭蕉や西鶴、近松とともに江戸文学の担い手として名をはせた大田蜀山人(1749~1823)筆の句碑。
手塚治虫がかつて住んでいた並木ハウスで暮らす。
並木ハウス・大家 砂金シゲさん

子母神の参道、ケヤキ通りの真ん中に、築51年という「並木ハウス」が現存している。漫画ファンならずとも巨匠・手塚治虫が、ここで「鉄腕アトム」を連載し、「リボンの騎士」描き始め、「火の鳥」や「ファウスト」の構想を練ったことを知っている。
80歳を超えたという大家の砂金シゲさんは、
「昭和29年から34年に結婚を期に代々木に引っ越すまでの5年間、201号室にいらっしゃいました。めまぐるしく多忙で、いつ睡眠をとっているのか不思議でした。お体を崩さなければいいがと、心配でした。そんな中でも、いつも笑顔の絶えない方で、うちの息子も可愛がっていただきました。いまもあの笑顔と笑い声は忘れません」と話す。
手塚はこの「並木ハウス」時代が最も脂の乗り始めた頃と言われる(鈴木光明著「マンガの神様!」=白泉社刊=に詳しい)。
「売れっ子作家なのに謙虚で礼儀正しいこと。面倒見のいいこと。神様みたいにみえました。輝いている人って感じの方でした」
多くの出版社の人が出入りし担当者が「並木ハウス」に引越してきたりもした。砂金さんの息子さんに絵本のプレゼントもあった。
「あの頃はテレビが家にあるのが珍しい時代だったのですが、先生がテレビを買った。ウチもお隣さんもみんな見に来てという。本当に嬉しそうで、子供のような笑顔でみんなを誘ってくれました」
実は近くに「並木ハウス2」が建っている。「私が元気なうちは、このままで残しますよ」と砂金さん。元気に語る砂金さんの笑顔も輝いてた。

大鳥神社から終点・護国寺駅へ

大鳥神社でお参りし、宝城寺、清立院を目指す。坂の勾配もきつくなってきた。「清立院前のこの坂は「御嶽坂」といいまして、江戸時代の面影が残る場所です。また清立院前の石塔は、弦巻川に石橋を架けた記念に建立したもの。
清立院内の御嶽権現は鬼子母神が鎮守となる前、雑司ヶ谷の鎮守だったといわれています。
歴史ある坂を下り、雑司が谷旧宣教師館へ。見学後はお庭のベンチでひと休み。そしていよいよ最終スポット、清土子母神、本浄寺へと進む。護国寺との間の坂道、小篠坂を通過すれば、ゴールの護国寺駅だ。

雑司ヶ谷旧宣教師館

雑司が谷1-25-5
明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが居宅として建てたもので、区内に現存する最古の近代木造洋風建築。都の有形文化財(建造物)に指定されている。展示ではマッケーレブの活動、生活ぶりを紹介。児童図書コーナーもあり、「赤い鳥」「子供之友」などの雑誌や図書を自由に閲覧できる。

宝城寺

南池袋4-7-19
日蓮宗。不動山。雨乞いのご利益で知られ、「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。
日蓮聖人の尊像は大覚大僧正の作といわれる。

石橋記念石塔

南池袋4-2-7
かつて区内を流れていた弦巻川(現在は暗渠)に石橋をかけた記念として、1733(享保18)年に建立された石塔。

大鳥神社

雑司ヶ谷3-20-14
江戸時代から続いてる11月の酉(とり)の日に、酉の市を開催。飾り物の熊手が縁起ものとして販売され、露店やお囃子、民謡、舞踊など催しも盛りだくさん。縁に囲まれた境内で、昔懐かしい風情に満ちた酉の市が楽しめる。

清立院

薬王菩薩碑
「かさもり薬王菩薩安置清立院」と刻まれた石碑は山門の石段脇にある。
薬王菩薩碑
「かさもり薬王菩薩安置清立院」と刻まれた石碑は山門の石段脇にある。
南池袋4-25-6
門前には瘡守(かさもり)稲荷大明神の社があり、皮膚病快癒のご利益で知られる。江戸名所図会によると、昔「雨乞いの松」があり、この清立院が雨乞いの場所だったと考えられる。

千石興太郎記念碑

雑司が谷1-37-11
千石興太郎は産業組合運動の中心的指導者であった。労働者の味方であり、庶民の味でもあった。日本の近代産業を根っこで支援し、働く多くの人々を陰に日向に支え続けた人物。記念碑は家の光協会研修内にある。

精土鬼子母神

三角井戸
昔、星跡の清水といわれ、夜な夜な不思議な光が水に映ったという。
三角井戸
昔、星跡の清水といわれ、夜な夜な不思議な光が水に映ったという。
文京区目白台2-14-9
子母神像が掘り出されたところ。
そこには三角井戸があり、すぐそばに芭蕉の句碑が立っている。

西池袋コース

大正期、拓けていなかったこの界隈の土地には、学校や教育の機関が移転してきたり、多くの文化人が移り住んだという。
立教大学に自由学園、文学の路ともいわれるこの西池袋コースは、繁華街池袋西口を出発点に閑静な目白界隈へと、穏やかに色を変える街の中の随所から当時の雰囲気が今もなお漂ってくる。

左右対称に設計された明日館の小さな例外たち・・・その訳は?

案内人
自由学園明日館
田代 優子さん
案内人
自由学園明日館
田代 優子さん
大正デモクラシー期の象徴的存在、羽仁吉一・もと子夫妻が創立した自由学園女学院。校舎である明日館は、当時帝国ホテル設計のため米国より来日していた建築界の巨匠・フランク・ロイド・ライトの設計によるもの。
明日館は前庭をコの字に囲み、左右対称につくられているのだが、おかしなことに、暖炉が設置されているのはなぜか片側だけだ。
「実は、明日館にはこんな例外がまるで間違い探しのように所々にあるんです。ライトは西棟と中央棟を設計すると、弟子の遠藤新にあとは左右対称に作るように遠藤に言い残して帰国しました。遠藤が完成させた東棟は一見、西棟と同じように見え、屋根には煙突もあります。ところが暖炉がない。おそらく遠藤は日本人にはストーブのほうが便利だと思ったんでしょう。よく見ると、窓枠の形もかなり違っています。」(田代さん)
遠藤新は明日館の小さな例外たちに、建築家としての主張を潜ませたのかも知れない・・・
自由学園明日館の食堂
当時としては珍しく食堂が校舎の中心に設計されている。
自由学園明日館の食堂
当時としては珍しく食堂が校舎の中心に設計されている。
池袋西口公園
豊島師範学校とその付属小学校の跡地。ドラマやCMロケにも頻繁に使われる名所。夜はライトアップされ、様々な人が集う。
池袋西口公園
豊島師範学校とその付属小学校の跡地。ドラマやCMロケにも頻繁に使われる名所。夜はライトアップされ、様々な人が集う。
元池袋史跡公園
池袋の地名発祥の地。ゆかりといわれる池が復元され、井戸水を利用した小さな滝や記念碑がある。成蹊学園発祥の地でもある。
元池袋史跡公園
池袋の地名発祥の地。ゆかりといわれる池が復元され、井戸水を利用した小さな滝や記念碑がある。成蹊学園発祥の地でもある。
立教大学
本館をはじめ6棟が「東京都選定歴史的建造物」。関東大震災で大きな打撃を受けたが米国聖公会の援助で復興。(写真はチャペル)
立教大学
本館をはじめ6棟が「東京都選定歴史的建造物」。関東大震災で大きな打撃を受けたが米国聖公会の援助で復興。(写真はチャペル)
舞台芸術学院
1948年、若くしてこの世を去った演劇人野尻徹の父により創立。故伊丹十三、役所広司、渡辺えり子などを輩出した名門校。
舞台芸術学院
1948年、若くしてこの世を去った演劇人野尻徹の父により創立。故伊丹十三、役所広司、渡辺えり子などを輩出した名門校。
宮崎滔天旧宅
中国革命時にの孫文の支援者として活躍した宮崎滔天と社会運動家の息子・龍介と「情熱の歌人」と呼ばれた妻、白蓮の旧宅。
宮崎滔天旧宅
中国革命時にの孫文の支援者として活躍した宮崎滔天と社会運動家の息子・龍介と「情熱の歌人」と呼ばれた妻、白蓮の旧宅。
自由学園明日館
大正10年に女学校として創立し、巨匠F.L.ライトが設計した国指定重要文化財。住宅地に佇む都会のサンクチュアリ。
自由学園明日館
大正10年に女学校として創立し、巨匠F.L.ライトが設計した国指定重要文化財。住宅地に佇む都会のサンクチュアリ。
豊島区立郷土資料館
豊島区の民俗や歴史に関する資料を展示。子母神や駒込・巣鴨の園芸の展示のほか、ヤミ市やアトリエ村の復元模型もある。
豊島区立郷土資料館
豊島区の民俗や歴史に関する資料を展示。子母神や駒込・巣鴨の園芸の展示のほか、ヤミ市やアトリエ村の復元模型もある。

高田コース

学習院大学内にある富士見台には、芭蕉の句「目にかかる時や殊更 五月富士」が刻まれた碑がある。江戸時代には富士見茶屋があり、ここでは句会や茶会が開かれた。
また、歌川広重の「富士三十六景」にも富士見茶屋が描かれており、当時、この地が富士山眺望の名所であったことを今に伝えている。

学習院大学の敷地内で「血洗いの池」「乃木館」「榊壇」など見学できる!

案内人
学習院大学 
佐藤善志さん
案内人
学習院大学
佐藤善志さん
学習院大学の敷地内には、たくさんの名所・旧跡がある。文化7年(1810年)に雑司が谷の俳人金子直徳が建てた「芭蕉の句碑」や、第10代院長乃木希典が学生と寝食をともにした総寮部の一部を移築した「乃木館」は広く知られている。
その他、学習院が明治41年に目白校他に移転した当初からの建物として、大学史料館(当時の図書館)、東別館(当時の皇族寮)。また、明治43年乃木院長が当時の日本の国境から集めた石で築いた「榊壇」、忠臣蔵の堀部安兵衛が血刀を洗ったといわれる伝説から名づけられた
「血洗いの池」など、見どころは多い。
「キャンパスは、学生だけでなく施設部で見学手続きをすると一般の方も散策できます。校内には各所に案内板がありますので安心して回れますし、売店や食堂も利用できますので、ゆっくりとご散策ください」(佐藤さん)
ちょっとした史跡・景観にも、存在する理由があるので、それを追い、昔の人々の生活を思い浮かべながら歩くと、より充実した史跡めぐりを楽しめる。
学習院大学・乃木館
明治41年(1908)に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木季典院長が学生達と寝食をともにした。
学習院大学・乃木館
明治41年(1908)に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木季典院長が学生達と寝食をともにした。
千登世橋
目白通りが明治通りをまたぐ立体交差の陸橋。昭和8年に開通し、デザインの素晴らしさからアメニティ形成賞を受賞した。
千登世橋
目白通りが明治通りをまたぐ立体交差の陸橋。昭和8年に開通し、デザインの素晴らしさからアメニティ形成賞を受賞した。
宿坂
昔の鎌倉街道の坂で、宿坂の関がこのあたりにあったという。急勾配が長く続く坂は、鎌倉の面影を残し、歴史を感じさせる。
宿坂
昔の鎌倉街道の坂で、宿坂の関がこのあたりにあったという。急勾配が長く続く坂は、鎌倉の面影を残し、歴史を感じさせる。
氷川神社
江戸時代には「氷川大明神」と呼ばれ、下高田村(高田、雑司が谷、目白、目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。
氷川神社
江戸時代には「氷川大明神」と呼ばれ、下高田村(高田、雑司が谷、目白、目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。

この情報の出典 「まるごと池袋マガジン 池袋15’」